2017年11月3日金曜日

【無職短編】じゃあお前なんか書いてみろと言われたので

こちらの記事でなろう系小説というものの書評というか感想を書きなぐったんですが、ツイッターでも騒いでた時に「きさまもそれらしいものを書いてみろ。稚拙でとりとめもない駄文ができるよ」というなんか歌ってみた動画に「下手やな」って言ったら「じゃあお前が歌え」って言われたような感覚に陥り、ならば書いてやろうと筆を執った次第です。僕は怒ると自棄になるぞ!


しかし恐らく僕は今から黒歴史を齢23で製造するだろうし、後悔もするだろう。なんならこれを読んだ人はその倍後悔するだろう。自分が視力を具えていたことを。けれど僕自身僕の筆致に興味があるし、彼の言うとおりなのかどうかにも幾分か興味がある。男は度胸、なんでもやってみるのさ(まさかの阿部さん)


さて、再三忠告はしたけどもまだ足りないので最終警告を言い渡す。おまえら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話を聞けっ!男一匹が、命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか。これから意識高い系紛いの無職が筆を執り、小説と謳うごみを製造しそれを諸君らに見せようと言うのだ(まさかの三島由紀夫)


それではふんぞり返ってなろう系小説を批判した無職の駄文を笑うがいい。あとで編集するのやだなあこの記事。



無職短編・無題


僕は或用事を済ませ不相変眼球と後頭部に鈍い痛みを抱えながら帰路に着いていた。この偏頭痛の理由というのは珈琲をもう数日も嚥んでいないことに違いなかった。少なくとも毎日カフェインを摂取していた頃には偏頭痛も和らいでいたことを僕はぼんやりと思い出した。この症状は母に、そして祖母にも顕れる以上先天的に運命づけられたスティグマに他ならないとーー『横浜、横浜です』ーー電車のアナウンスが僕を空想の世界から現実へ連れ戻した。僕は殆どそのアナウンスに促されるように電車を降りた。


プラットホームは視界のどこも無機質で殊に兵隊の様に歩を進める人間は僕の目に痛ましい印象を与えた。サラリーマンの信じる神は企業だろうか?主婦の信じる神は高級ブランドのバッグだろうか?学生の信じる神は単位だろうか?僕の信じる神はーーこういう妄想と聯想は僕の視覚を覆い隠すのに丁度良かった。少なくとも物心ついた頃からこの悪癖に救われてきたし、今も尚カリガリ博士のフランシスの様でなければ僕と正気とは無縁だったに違いない。僕は何かから目を逸らすようにそんなことばかり妄想しながら往来へ流れていった。


建ち並ぶビルディングと広告のノイズは何れも僕に不愉快だった。僕はこの街のーーミニチュアの都会紛いの過去を妄想した。モダン建築以前の木造建築を、和装を、風俗を、嘗ての日本を想い描いていた。そうして何かに反抗的精神を向ける事はいつも僕の神経を正常に保った。そして僕自身の思想の偏りを、自意識を、自尊心を分析し始めた。そしていつかそれらがいつ萌え初めーーそしてそれらがいつ根を張り僕自身を縛り付けていったかを思い返していた。過去には何一ついい事がなかったため、僕は未来に救いを求めた。しかし未来は過去ほど明るく残酷に事象を写しはしなかったものの、どこか暗がりの中に針を、棘を具えていた。就中現在は整合性も調和も喪っていた。


僕は何時しか或知人に紹介されたカッフェの扉を開けていた。人を心から嫌い何時も静寂を求める僕にはこのカッフェが特に気に入るものだった。店内には燭台に蝋燭が二本灯っているだけで、窓さえもなく光はそれらが唯一だった。僕はウォールナットの椅子に腰掛け注文したエスプレッソを待っていた。僕以外には暗がりの中に店主以外客もいないらしかった。僕はこの店をどこかフィルム映画の様に観察していた。蝋燭の淡い琥珀色の光と漆黒の調和はどれも僕に愉快だった。


僕はテーブルに置かれたエスプレッソの香りを、味を楽しんだ。鎮痛剤と言う名目で相当の値段である珈琲を嚥み、僕は頭痛の収まる事を期待した。しかし、存外この現状、現実は僕の心に穏やかな印象を与え、何時しか頭痛さえ取り払ってしまった。僕は痛みを抱えていない事に何処かある種のコンプレックスを感じ、僕自身の感じた矛盾を冷笑しない訳にはいかなかった。正常の状態であるならば、何かに対しての言い訳すら出来ないと心の何処かで感じた。


鼻腔に残ったエスプレッソの香りを楽しみながら僕は自宅の扉を開けた。家族は帰って来ていないらしく、それが僕を少し安心させた。僕は身支度を済ませさっさと床に臥した。眠る時にも僕は暗がりの中に生命の死を、自我の消失を、神経を、電気信号を、血液をーー殊に死に対する強烈な不安と恐怖が見え隠れした。みんなどうやって約束された死と向き合っているのだろう?人生が丁度死刑執行を待つ死刑囚のモラトリアムに過ぎないのなら、或いはそれに等しいと感じるなら、その事実を何故見ないでいられるのだろう?僕は幼稚園に居た頃、自分にしか自我を、意識を感じることができないならば他人にも自我と意識が存在するという証明は僕自身には絶対出来ないと考えていた。畢竟、僕以外の人間は機械のようなもので、外界の事象に反応する傀儡なのではないかーーそんな事ばかり考えていたが、そんな考えを誰にも伝えられないし伝える意味もない。こういうズレはいつも僕の神経を脆弱にさせた。


泥に沈む舟の様に僕の意識は眠りへ落ちていった。僕は霞みゆく意識の中で、二度と目の覚めないことを、仮に目が覚めたとしても遍く全てのなくなっていることを願わずにはいられなかった。




終わりです。お疲れ様でしたと言いたいところだが、これはどちらかというと僕に課せられた無意味な苦行ではないか?得たものと言えば、僕はどうやら芥川龍之介に、とりわけ『歯車』にエグいくらい影響されているということくらいだ。僕は以前なろう系小説批判記事で、"こんなのは涼宮ハルヒの憂鬱とゼロの使い魔を足して超絶劣化させた何か"みたいな評価を下したが、このクソデカブーメランは見事僕のドタマに突き刺さったのだ!笑うがいいさ、いっそ笑いたまえ。言うならば僕のこの駄文は"芥川大好き小説家気取りのクソガキが書いた便所の落書き以下のクソ溜め"だ。確かにわかった、創作の上で何かに影響されないのは不可能だ。理解したよ。何故なら創作意欲の根源に作品と作者への陶酔と憧憬があるからだ。僕の作った曲は"DIR EN GREYと平沢進を混ぜて汎ゆる魅力を削ぎ落とした雑音"だし。前述した創作の事を僕は僕自身の手で了解したし、証明も出来たと想う。ところでものすごい文章が長くなってるのは物を書いた余韻。助けてください。


さて、汎ゆる創作が痛ましいほどに作者の次第を映すということは証明できた。だから僕があのなろう系小説に対して「あんなもんはハルヒとゼロ魔のパクリでそれ以下だ」みたいな上訴は棄却される。僕のこの駄文は明らかにあのなろう系小説以下だし、絶対に読者数で勝るころはない。いいねもふぁぼも付かなければ閲覧数でも負けるだろう。

僕は音痴が歌うたいの歌を批判することを悪いと思ったことがない。同時に運動音痴がバッターのストライクに文句をつけてもいいと思ってる。何故なら観客聴衆観衆に必須とされる感性も技量も必要ないからだ。同時にそれらのプロもそう想う……っていうか想っていてほしい。だから僕がこんなことをする意味も意義もないが、無職なのでやった。暇だし。確かに創作は大変で粗を探せばいくらでも見つかるものだ。それが素人なら尚更だろう。けれどだからこそ僕は森林に萌える新芽を愛したいと想う。きっとその草花がいつか林に、森になるのだから。なんかいい感じに〆たつもりかもしれんが僕はファットマンとリトルボーイもビビってクソ漏らすほどの核爆弾を生んだ事実からは逃れられず、そしてまた今日は眠れないだろう。僕からは……ああ、以上です。

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