小学生の頃、女子の間で交換日記が流行っており僕もそれに混ざっていた時期があります。もちろんそれは僕の女子に近づく作戦に他ならなかったわけですが、これが存外楽しいものでしょうもない人間のとりとめもない文章を小学生の僕は楽しんでいたのです。今となってはこれがSNSに通ずるものなのかなあなどと。
芥川龍之介を始め作家というものには作品が、小説が、戯作が存在します。何度も何度も推敲し反芻し言葉の一つ一つにまで拘った作品。けれど彼らのうちには少なからず『雑筆』と呼ばれるものが存在します。
【雑筆】………種々多様でとりとめもない手記、文章。
今貴様らがたが読んでるこれのことですな。このしょうもない文章を御覧なさい、こんなものはチラシの裏にでも書くべきだ。便所の落書きだ!でも本当に便所の落書きだとしたら、本当に無意味なものならば、何故Facebookを始めとしたSNSが流行るのでしょう?
僕はこの謎を解くためにツイッターを始めました。嘘です。けれど長くSNSを使っていると少しずつわかりかけてきました。本当です。フォローした人が好き勝手にしょうもないことやとりとめもないことを呟いているそれこそがツイッターの本質。Facebookは日記のようなものですが……ある意味でとりとめもない。それには変わりありません。
僕は雑筆を庭先の猫と捉え了解しています。対して大作、作品は……なんだろう、動物園の獅子とか。例えの才能がない。
要は雑筆は僕らにとっても身近なモノなのです。僕は芥川龍之介が大好きなのでもっと彼を知りたく成ります。作品から推し量ることも可能ですが、彼の雑筆、日記、手記などから読み取るほうが簡単で正確です。彼の人となり、人間性が見えるのです。地獄変のように神々しくもないそれがどうにも猫のように愛おしいのです。愛おしいよな?愛おしい。愛おしいと言え。
SNSはどうでしょう?古くはmixi、モバゲー、今やツイッター、Facebook。これらが雑筆とするならば、作品は投稿サイトでしょうか。作品は作家から生まれますが、作家は作家である以前に生活者。ある意味で生生しく平凡で質素な生活があります。そんな生活者、一人間が垣間見える雑筆が僕は好きなのです。
……さっきSNSは雑筆のようにしょうもない文章を人が求めているから成り立つみたいな言い方をしましたが今思えばみんながみんな平等に持ちうる自己顕示欲の連鎖がそれを成り立たせてるんじゃねぇかと今思いました。そしてそれによって僕のこの記事は意味を失い死にました。雑筆以下の雑筆、クソ以下のクソは僕というクソから生まれたのだった。僕からは以上。
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