2021年7月30日金曜日

ブログのタイトルを変えた~実存主義を語ろう

 変えた。ブログというか、そもそもなんでも異常に思考することに喜びを感じる人間がそれをアウトプットする場所としてトゥイッター(ひろゆき)の次に使うという、そんなようなものだった。が、今や別に意識高い系でも無職なんでもないただの読書好きの非正規雇用のおじさんなのでこのようなタイトルになった。意味はあまりない。ただ、名づけるという行為にはやはり何か実存主義的(0.02mmの意識高い要素)な意義を見出したことは間違いない。本質的意味合いを造物主が与えるのだから。


さて、この実存主義という言葉は最近俺を悩ませている言葉の一つだ。哲学において頻出する言葉で、初見では誰にも意味が分からないということだけしかわからないウザい言葉。

考えてもわからないならこういう時はゆとりらしくWikipedia先生に訊いてみよう。なぜって、Google先生に訊いたら「彼に訊け」と言われたからね。自動的にそうしよう。ところでこのフランス産ラム酒はずいぶん善く酔えるなあ。


引用)

実存主義(じつぞんしゅぎ、フランス語: existentialisme、英語: existentialism)とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想。

実存(existenz)の当初の日本語訳は「現実存在」であったが、九鬼周造がそれ(正確には「現実的存在」)を短縮して「実存」とした(1933年(昭和8年)の雑誌『哲学』内の論文「実存哲学」においてのことであり、可能的存在に対置してのものである)。語源はex-sistere(続けて外に立つの意)。何の外にかといえば、存在視/存在化されたものの外に、ということである。「実存」についての語りで習慣的にまず言及されるキルケゴールが、デンマーク語で主張した「実存」は、やはりラテン語出自でExistentsである。ドイツ語では、ラテン語からの外来語としてExistenzがあり、一方、土着の語としてはDaseinが相当する。しかし、前者のほうが日常的頽落性にもある後者よりももっと、実存の持つ、自由へ向かった本来性という様態に特化して使われている。



意味不明である。



哲学を知らないにも関わらずこの文章の意味が分かった人は今すぐハーバード大学を受験するか俺の目の前から消えていただきたい。日本語で構成された文章にも関わらずまるでアラビア語でも観てるかのような気分になるのは哲学あるあるだ。つーか、わからせる気があるのか?なんだか嫌味な文章に思えてくる。ハゲた風俗狂いの説教臭い講師が頭をよぎった。



少しだけ意識高い系の神経細胞を呼び起こして説明するならば、これはつまり人間というのはスプーンやフォークのように役割を持って生まれるのではなく、自らの意志で極めて自由に自らを定義できるといったような意味合いである。例えば、スプーンはスープを掬ったり目玉を抉り出したりするために造られる。フォークだってそう。食べ物に刺して口に運んだり、なんか、やっぱり眼玉を抉り出すために造られる。こうするために造った、というのが道具にはあるのだ。その一方で、人間はそうじゃなく、生まれてきた意味を自分で見出すんだよってことを言ってるのである。


そんなのあたりめーだろって思うかもしれないが当たり前じゃない人が時々いるから悲劇なのだ。日本の象徴足る彼、彼女はつまりある側面においてやはり悲劇的だ。それが日本の象徴ならなおさら……いや、話が逸れた。みんなそうでしょう、私ってなんなんだろうって終電で思いながら転寝をするのでしょう。


別に、そんなの知らん、お前が決めろよお前の事なんか。お前はお前なんだから。って言ってるのが実存主義で、そんなの当たり前じゃんって思えるのはそんなことを考えてくれたクソ頭の良い狂人あるいは天才のおかげだということを、なんか、どっかの機会で大声で叫びたいが留置所生活は地獄なのでここに書くだけにとどめておこう。そもそも大体実存主義で有名なのはサルトルってジジイだけど、それ以前以降にも様々な形でそんなようなことを言っていたジジイは多くいたことをまずこの場でご留意いただきたい。だって、ほら、昔の欧州ってのは、サ。キリストが、なんか、すごかったから、サ。それに対するアンチテーゼがつまり神からの遺志の解放、自由意志の影をより色濃くしたって、ワケ。日本にいるとあんまり実感ないけどね。


そいで、なんで急に実存主義?って人もいるだろうけど、古来より精神的パラダイムシフト(なんでもいい、ショッキングなことがあったりとか)があるとどうしても人々は哲学に縋るようになる。あれ、こういうふうにしてたら救われるんじゃないの?こういうふうにしてたら間違いないんじゃないの?って思って生きてるところに戦争とか貧困とか伝染病とか、とかとか。そういうことがあると最終的にそれを解釈する脳、あるいはそれを観る目玉をどうにかしないとやってられねぇよなってわけで思考法に人は縋るのである。だから意識高い人からするとアドラーの嫌われる勇気がベストセラーになった時は絶望と共に冷笑したものである。かくも人は人に悩み、かくも人は労働に悩み、かくも人は、ああ、脆いものだと。ピラミッド建設に携わった奴隷でさえ雨の日はサボりパンとビールを楽しんだのにも関わらずと。でも、労働者足るとそうだよなって思う。そうであることにも喜びを感じる。とっくにくたばった狂人が現代人の、国籍も何もかも違う自分にぶっ刺さる言葉を残してくれていたことに限りない喜びを感じる。イってるかもしれない。言葉は、言霊はやはり時を超越する。フロムの宮崎もそう思ったんだよなあ!?わかる、ああ、わかるぞ俺に今お前の思想が!!!!!!!!!!



……一度、深呼吸をしよう。大体18世紀から21世紀あたりの哲学者達が今の俺たちのために言葉を遺してくれたのは間違いない。労働はいつの時代もどこの国にもあったのだから、そこに哲学が生まれるのは必然だ。あるいはそうあるべきだ。人間には余りにも大きな脳があるのだから。なんなら、紀元前ギリシャ(希臘表記が好み、ともはね)、紀元前中国(歴史がどうとかイキってるけど名前変わりすぎだろ××ック!)から思想や遺志は時を超えて俺たちを勇気づけてくれる。欺瞞かもしれない、独善的かもしれない。しかし、それは実存主義的に言えば俺たちのための言葉なのだ。さあ、労働者、proletariat、農民よ、鎌と槌を交差し立ち上がろう!いざアダム・スミスの智慧の元に、いざレーニン、マルクス主義の下に!僕からは以(ry 手記はここで途絶えている。この地下室に残されたいたのは、この手記と瓶、灰皿と-前頭葉-スマートフォンのみであった。

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