2021年7月6日火曜日

ここ数日の事、雑筆

 大体もう郵便局っていうのは今が繁忙期でこうなると俺は酒を飲みながらぐだぐだなんかして時折こうして文字を書くことが癒しになる。大脳が異常に思考するタイプ(こういう奴はダウナー系の麻薬に酔う)は労働中も労働的な何かをしている時も主観客観、虚像実像、認識と誤認についてぐねぐね考えるわけで、睡眠ぐらいでしか脳が安らがない。ので、執筆中のこの俺は今まさに飲酒による酩酊を楽しんでいることをご留意いただきたい。


認識について

古代ギリシアからプロイセン、ドイツ帝国に現在までに哲学とか精神医学とかそういった極めて形而上学的な、あるいは観念論的アリストテレスismに対するアンチテーゼは……また、ユダヤ、基督の教えに対する反論もそれらに内包する形で隆盛を続けたわけだが、その中でもこれはphilosophy、精神医学、それらの前後に対して随分と影響を与えたなと思ったのはカント哲学である。大体彼も哲学者のうちに謂われる狂人の域に浸かっていたのだが、それ故かそもそもの認識、五感、形而上学といった学問の選別に貢献したという意味でやはり彼の生まれ以前、以後でこそあらゆる学問、文化、文明は認識において変容したといえる。

時に人は、全く面倒なことにずいぶんと多種多様である。これが本当に面倒なことで、ある側面において似た人はいても全く同じ人はいないという点が実に煩わしい。そういった多様性に着目し、多様性足る"かつて"にフロイト、そしてフロイト学派は着目し無意識や夢に人の本質を見出したのだが、それらの認識の認識、カント哲学的に言えば五感の限界に於いての認識を認識する、という点であれば人の多様性に対してのアンチテーゼはむしろ霧消するのだと思う。

ユング的に、アドラー的に思案するのであれば意識とか心とか欲求とかそういった目玉に宿らぬ観念論的概念は正しく反唯物論的に人に宿るものである。だからこそ中世以降、近代、ないし現代の"当然のmeme"は受け継がれるのだろう。五感に依らぬ物は正しく唯物論的であって、しかし人の思考に於いてのみ(微かに)具現化する。誰もがそれを在ると信じ、そしてそれらが大脳のうちを占める多くのシナプス、神経細胞のたぐいに依らぬと思うのであれば、それらはきっと個々人の思考に依らない純粋な、極めて包括的なmemeであるはずだ。

大体18世紀以降の労働論、人文学、それらに依る文化文明に於いてアダム・スミスの国富論に於いて説いた見えざる手を根拠とするならばやはりカント的形而上学のたぐいは学問、非学問の境界を冒し得ない。何故なら行動経済学を初めとした諸々の人文学、あるいは人文学的心理学的考察のたぐいはやはり五感を超越した何らかのsenseにのみ映し得る事象だからだ。この感覚を一つの感覚として理解するのであれば19世紀以降のあらゆる学問には相応の反論があるべきで、人の知り得る範囲を定める、それらを極めて数学的に理解できるのであれば(あるいは多くの人がそう出来るのであれば)これらはカントの説く学問と非学問の境界を曖昧なものとする。



こういうことを考えながら労働をしています。もう僕は酒に溺れこれ以上の筆致は望めません。どうかこれを読みなんか思い、思わなかったりすることこそが僕の人に想う希望そのものと言えるでしょう。僕からは以上

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